いつもなら、さっさと東名にのって
千葉へ帰るのですが、今日はまた旧東海道を少し走りました。
興津宿・薩埵峠は特に写真には撮っていませんが、
興津宿は、1300年も前から関が設けられて、その立地が
政府にとって重要な場所として位置づけられていたそうです。
明治時代になると、財政各界の著名人の別荘地として脚光を浴びていたそうです。
(
これは、以前書いたものです。)
由比に向かって走ると、道が本当に狭くて、
昔の雰囲気を残す町並みが続きます。
今回は、こちらを観光。


そこに、昔の写真(寄贈されたもの)が展示されていました。
いまむかしの様子を知る、とても貴重な写真だと思います。



昔の写真を見ていると、人々の生活とか
様子が目に浮かんでくるようです。
なんだかものすごく懐かしい不思議な気持ちになります。
由比宿に入って、こんな建物が残っています。

稲葉家のせがい造りと、下り懸魚(げぎょ)といわれるものです。
◆せがい造り◆
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし“たるき”を置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。
◆下り懸魚◆
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを掘り込み装飾も兼ねている。稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物です。
それから、“宿”の東西の入り口には、こういうものがあります。


ちょうどここに、昔の商家・志田邸というものが残っています。

蒲原宿のほうへ進むと“西木戸跡”(蒲原宿の東、西の入り口にあった木戸。これは、宿場の治安と
管理の為に、朝解放し、夕刻に閉鎖されていて、今はその跡が残っています。)があって
ここを90度、山側へ向かい、それから山沿いに旧東海道が続きます。
これは、元録12年(1699年)の大津波によって、東海道が山沿いに変更になった為だそうです。
志田邸跡。


これは、まだ名字が与えられてなかった頃、屋号で呼んでいた頃の
蒲原宿の様子。
蒲原の会(NPO)の方が当番制で色々と案内して下さっています。
このあたりでは、塩が取れたので、それと、小魚を干したものを
富士川を船で上って、山梨の方へ運んでいたそうです。
それから、こちらの“旧五十嵐歯科医院”も、
『NPO法人 旧五十嵐邸を考える会』の方がとても丁寧に説明して下さいます。


それから、これ。
昔は電話のある家は少なかったですから、ここで
近所の人が電話を使ったそうです。(電話はあとからのもの)

この電話部屋?の壁には、当時のメモ代わりに書いたものが
そのまま残っています。
金庫。

中庭のポンプ。
診療室は2階にあったので、これで水をあげたそうです。


赤い屋根の建物が、遠方から来た患者さんが泊まる場所。
こちらの病院はとても有名だったそうで、遠方からも患者さんが
来たそうです。

この方も患者さんだったそうです。

診療台。
なんだかこわそう・・・




当時は、病院の2階からは、海が目の前に見えていたそうです。
ものすごく景色がいい歯医者さんだったんですね。
この建物は、ボランティアの方々の手で修復されたんだそうです。
次はこちら。“旅籠和泉屋”
2階の手すりのアーチ型がとても珍しいです。

この方のひいお爺さんがここを買って、雑貨屋を始めたんだそうです。


蒲原には、“古代塗”という伝統漆塗りがあったんだそうです。
技術者が戦争で亡くなってしまったのですが、現在、この技術を復活させようと
活動しているそうです。


今まで身近にこのように歴史を肌で感じるものが
あるとは知りませんでした。
静岡を離れたからこそ、余計にそれを感じます。
そして、これらはたくさんの方の「守りたい」という思いで
守られているのだと知りました。
しばらく、タイムスリップ気分でぼ~っとしていました。